産業医のおはなし⑦大学受験の話

皆さん、こんにちは。代表であり産業医の比嘉です。大学受験の時期ですね。
今日は、私が医学部合格を掴み取るまでのお話をしたいと思います。

私は両親が医師ではない、ごく一般的な中流家庭で育ちました。中学生の頃に両親が離婚、高校時代には麻雀にのめり込み、成績は急降下…。決して順風満帆な学生生活とは言えませんでした。

しかし、そんな私にも熱中できるものがありました。それはハンドボールです。高校時代はハンドボール部でバスケットボールでいうゴール下のセンターポジションを担当していました。当時全国優勝していた興南高校もエントリーする強豪揃いの沖縄県大会で、私たちは見事ベスト4に入賞!
あの時の興奮と達成感は、今でも忘れられません。


高校2年生の時に友人に誘われて塾に入りましたが、それは通学していた高校の目の前にある、周囲の人たちから「宗教のようだ」と疎まれていた無名の個人塾でした。確かに今振り返るとみすぼらしい外観と清潔感のない容姿の塾長、講師は1人だけ、独特な学習法、そして月謝は格安の3万円(夏場だけクーラー代で5千円ほど値上げ)という、かなり個性的な塾でした。

塾長はまるで「ドラゴン桜の桜木弁護士」や「バキの範馬勇次郎」のような、圧倒的な自信を備えた人物でした。

塾長の口癖は「私なら君たちを東大につれていける!」

この圧倒的な自信は、私たちに衝撃を与えました。500名弱の卒業生のうち国立大学に合格できるのは50名程度という、決して進学校とは言えない高校に通っていた私たちにとって夢のまた夢のような話でした。しかし、塾長の言葉は、私たちの心を鼓舞してくれました。

高校3年の夏、インターハイで敗退したのを機に、私は本格的に受験勉強を開始。ようやく勉強に集中できる環境が整いました。

今でこそ、恋愛も学業もエンジョイしている学生が多くいることを理解していますが、この塾には「男は異性にモテると満足して勉強しなくなる」という塾長独自の考えがあり、当時の私たちは真に受けて「モテることは悪だ!」と本気で思い込んでいました。(本当に宗教みたいですね。笑) その結果、男子生徒の多くは丸坊主にして地味な服装…と、まるで修行僧のような生活を送っていました。

しかし、東大合格への道のりは険しく、2浪目でようやくセンター試験の足切りラインをクリアするも、3浪目も不合格。

そんな時、塾長から「東大生は現役合格の割合が高い。視野を広げて、地元の国立医学部を受験してみてはどうか。医学部なら今後も胸を張って生きていけるのではないか」と提案されました。終わりの見えない浪人生活。不安を感じていた私たちは、その提案に賛同して進路を変更しました。

進路変更の結果、長~い浪人生活を経て、琉球大学医学部医学科に合格。決して平坦な道のりではありませんでしたが、諦めずに努力を続けた結果、成果を得ることができました。

スポーツを通して培った「諦めない心」や、友人との出会い、そして、型破りな塾長との出会いは、私にとって大きな支えとなりました。私は「どんな状況でも、諦めなければ成功する」ということを学びました。

現在勉強に奮闘している受験生、そして、何か目標に向かって頑張っている皆さん。私の経験が、少しでも皆さんの励みになれば幸いです。